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2010年8月26日 (木)

臼杵の地名由来⑥ 福良付近

自分は史跡や文化財を「史源」と呼んでいるが

近年臼杵の町づくりはこの史源を守り、残すというスタンスを保っており

広域に、威迫的に、また自慢げに身構えてはいるのは

古き良き大切なる昔を継承する我々民話伝達人にとって

実に張り合いのあることであり、光栄の至りであるが

なお少しばかり遺憾に思うことは

よその祭りや文化財と競争するために

国指定とか県指定とか市指定とか

神様や仏様にランクをつけてバチが当たらないのか?

このように思う今日この頃

どうか尋常な善男善女みなさま、

残暑厳しい深田の里の

石仏火祭りにも

ぜひ足を運んでいただきますようお願い申しあげまして、

甚だ簡単ではございますが、ごあいさつとさせていただきます。

臼杵の地名由来⑥は福良付近の地名について

「福良」

海岸でも山野でも水流の屈曲によってつくった平地で耕作移住に適したところを「ふくれる」という意味から

「鎮南山」

南方を鎮めるの

「陣山」

関ヶ原の時、竹田の中川が臼杵の太田一吉を攻めた。その時中川が陣を組んだ山であることから

「温井」

大友の家臣・奴留湯(ヌルユ)氏の住所であることから

奴留湯氏はフロイスの日本史にも詳しく記載あり

墓は仲尾福一氏の家にある

付記

珍名「へひり坂」

今もこの名で呼ばれる坂の名は加島英国:「桜翁雑録」にも「屁放坂」の記載あり

江戸後期よりこの名で呼ばれていたと思われる

2010年6月23日 (水)

臼杵の地名由来⑤ 塩田付近

映画を見てはじめて泣いたのは

「ドラえもん のび太の恐竜」だった

卵のままの化石をタイムふろしきで孵化させ

恐竜のピースケが生まれたが

もとの時代にもどしてやろうと

のび太たちはタイムマシンに乗り白亜紀へ

途中でいろんな道具のトラブルや、

未来からやってきた恐竜ハンターらとの戦い

夢と友情の大冒険

最後はタイムパトロール隊によって

時空犯罪を犯した恐竜ハンターもつかまり

ピースケも同じ仲間の群れに入った

この別れの時に我慢していたものが破裂し、

思わず涙してしまった・・・・

だが、

自分も大人になるにつれ

おかしなことに気がついた

恐竜を乱獲したハンターが時空犯罪で捕まったのはわかるが

本来生れていないはずの恐竜を孵化させ

白亜紀にもどすということは

厳密にいえば生態系を壊す可能性

それに伴って、未来をかえてしまう危険性が考えられるわけで

このような立派な時空犯罪を犯しているのび太(主犯格)

タイムパトロール隊はなぜ逮捕しないのか?

そもそも

のび太の未来を変えるために

現代にやってきたドラえもんは

時空犯罪にはあたらないのか

誰か教えてほしい

などと 余計な心配をする今日このごろ

本来ならばのび太と結婚するはずだったが

ドラえもんのおかげで

しずかちゃんにのび太を略奪されたジャイ子は

いかがお過ごしでしょう か?

臼杵の地名由来⑤はこれまた福良小校区ですが

「塩田付近」を三つ探索であります  

今は呼ばれることのない古名・小字も

おもしろい由来があるようです

「塩田」

葦の生えた沼沢地に潮が侵入していたのでこの名になった

「井樋の口」 

浄元寺の付近の呼称で水門の跡を呼ぶ。潮が塩田方面に流れ込むので関門を設けてその

侵入を防いだ。昔は堰(せき)を「井樋」と呼び、水の出入口なので井樋の口と呼ばれた。

「於弁坂」

「おべん」という絶世の美女が付近に住んでいたのでこう呼ばれていた「臼杵町誌」には「市街地より火葬場にいたる道路」とあり、現在の塩田のガードから直進し、Y字路を右に上がったゲートボール場までのどこかの坂を呼ぶと考えられる

2010年6月17日 (木)

臼杵の地名由来④ 二王座周辺

大河ドラマや映画のロケ地

大きなスポーツの大会開催地を

誘致しようとする都市の多くは

その間の経済効果、観光地化を目的に

町ぐるみ、地域単位での活性化に挑戦し

自分から名乗り出ているわけだが

世界遺産とかいうのは

世界が決めるものであって

自分から手を挙げて

名乗り出るものじゃあねえだろうが

すっとこどっこい

と心の底から思う今日この頃

皆様方におかれましては

この時期 大量に実る枇杷の実のおすそ分けに

多少下痢気味のことと存じます

二王座周辺の地名由来 は小ネタが多いのでいろいろ書いてみました

以下は「臼杵町誌」参照と、不明なものは近所の方に聞きました

「神ノ木原」

福島県いわき市に勧請していた八坂神社を鶴峰氏が後三年の役を逃れるため、海路を経て臼杵の洲崎・岩ヶ鼻に着岸し、現二王座の上部付近に鎮座した。よってこの名がついた。御神木のある原という意だろうと言う

「原山」

神ノ木原がある山、よって原山という 

「二王座」

神ノ木原すなわち八坂神社に上がる参道(現在の香林寺の坂)に仁王門が備えられていた名残で二王座となった

「柿所台」

原山東南部 トンネルの上一帯の古名。この地に鶴峰氏の宅があり、その周辺に柿の木があり、柿を毎年国守に奉り、また近衛関白前久卿にも献じた。古くは「柿戸の台」と呼んだ

「切り通し」 

真光寺から塩田に抜ける登り道で山を切り開いた場所。竹藪の多い地で岩を切り通していることからこう呼ばれた 。市内に同じ呼び方をする場所あり。」

「甚吉坂」

天正の豊薩合戦の時、宗麟が籠城する丹生島城を守るため、吉岡甚吉がこの場で島津軍の首を何人も取ったので甚吉の名前をとった。甚吉の母は鶴崎城を守り、島津を不意打ちしたという妙林尼。

2010年6月11日 (金)

臼杵の地名由来③ 米山

環境とか リサイクルとか

そんな汚ねえ政治のにおいがすることがしっくりこない自分は

「エコバッグ」というものを持っていない

それには大きな理由がある

ポリ袋をなるべく少なくするためのエコバッグ。

もしエコバッグを買いに行ったら、何に入れて帰ればいいのか?

誰か教えてほしい と心願する今日この頃

皆様、いかがお過ごしでしょうか?

臼杵の現・北海添地区の

御旅所の辺りを「米山(ヨネヤマ)」といいいますが

これの由来は大友の時代にさかのぼります

キリスト教にどっぷりとはまった宗麟は

神社仏閣をことごとく焼き払った・・・と歴史は語ります

八坂神社もやはりそのターゲットとなりつつあったので

あちこちへ御神体を隠さなければならぬ・・・となったわけです

そして現在のこの場所に神様を隠しました

「神をかくす」=「こごめる」=「籠目る」 となり

「籠目山(こめやま)」となって 

時代とともにいつの間にか勝手に変換機能が作動し

「米山」とかかれるようになって

今の呼び方に至っています。

米を作っているわけでもないのに「米山」とは?と

疑問に思われた方も多いとは思いますが

お答えしましょう・・・・

山はあっても「山梨」というがごとし、

「豊かさ」を実感できないのに「豊の国」というがごとし。

2010年6月 7日 (月)

臼杵の地名由来② 京泊

インターネットは世界の窓。

個人の中傷や批判はすべきでないし

自分の周りの少ない統計で決めつけるのもどうかと思うけど

そんなことは百も二百も承知の上で

あえて書かせていただくが、

普段から軽々しく「エコ」を口走っておるやつに限って

地区のドブ掃除に出てこないのはなぜか?

だれか教えてほしい・・などと思う今日この頃

みなさまにおかれましては

エレガントな日々をお過ごしのこととお察し申し上げます

臼杵の地名由来第二弾は

臼杵石仏に関連する「真名野長者伝説・炭焼小五郎」にまつわる地名もろもろです

全国に類話の多い「炭焼長者」

民俗学者・柳田国男はその発祥を豊後と推理しましたが

その豊後の炭焼長者は三重内山から臼杵に渡る範囲で

さまざまな伝承を残し、また各地に由来を残しております

現在の臼杵の市浜地区の臼杵川に面した南側は「京泊」と呼ばれています

真名野長者の一人娘「般若姫」に会うため

橘豊日皇子(用明天皇)は「サンロ」という牛飼いに身を代えて豊後に落ちて来ました

船が着岸し、とも綱を操った場所を「綱繰り屋敷」、

地元の民が身分は知らず皇子に甑で飯を蒸してもてなしたのが「甑天神」(現住吉社)の神体

座った石が「玉座石」(のちに発掘され現住吉社内)

京の尊い方がお泊りになったとのことでこの場所を「京泊」と名付けたそうです。

その後橘豊日皇子は長者のもとで働きましたが

般若姫の病をきっかけに、流鏑馬の儀にて病を治して身分を明かし結婚、

般若姫は懐妊し皇子は一旦都へ

生まれた子(玉絵姫)が娘だったので、子は長者が引き取り般若姫は都へ

都へ上る姫の船を見送ったのが「姫見岳」と呼ばれたいます

般若姫が途中で命を落とし、それを聞いた長者夫妻が

姫の供養のために造ったのが石仏だと言われています。

また、

橘豊日皇子(用明天皇)は「サンロ」と名乗ったので

南津留地区の「山路」もなにか関係があるのかもしれない・・との説もあります

これ以外にも橘豊日皇子に連関する由来譚は坂ノ市・萬弘寺~皇ノ瀬~宮河内~九六位山などに数多く残っており

小五郎伝説はなんとおとなり津久見の青江にもあり、

お告げにより小五郎を求めてやってきた玉津姫の旅路には

豊後大野などに神社由来といった形で残されています

(場所を忘れたが、たしか玉津姫が自分の醜さに鏡を投げた「鏡神社」とか?)

はたまた九重の朝日長者が皇子がいなくなって困っていた内裏に

豊後にそれらしき者がいることを報告した・・・などという記述もあったりして

かくしてて真名野長者伝説は四国や山口にも伝承は飛び火し

長ったらしい一小説にも膨らんだわけですが、

自分が思うにこのような「発祥はわが町」と手を挙げる場所が増えるに当たり

収集がつかず、どこかでまとめようとしたのが「真名野長者実記」などの縁起ではないか・・

こう思うわけです。

2010年5月27日 (木)

臼杵の地名由来① 清太郎

市議選も無投票のまま終わり、議席以上の候補が出てこなかったところを見ると、結局のところ「そんなに議席も必要ねぇんじゃあねぇのか」とか思いつつ、議員報酬を減らせばいいかというと一概にそうともいえず、かといって若い候補も出てこぬようなつまらん街にもなってもらいたくないので、どうせならいっその事「議席減らして報酬増やして議員年金無くしたほうがいいんじゃああねえのか」などと思う今日このごろ、善男善女諸君におかれましてはいかがお過ごしでしょうか?

さて我々の怪談やら妖怪調査の過程で、まったく関係ないナゾが解明することが多々あります。臼杵の各地の地名の由来などもそのひとつであります。

そこでこのようなカテゴリを設け、近距離の歴史に興味を持っていただこう・・・・こう思うわけであります。

臼杵の下南地区に「粟手原」(あわてばる)と呼ばれる場所があるそうです。

この地名は地元の方に聞かなければ正確にどこからどこまでを指すのかわかりません。無論、臼杵の方でもこの地名を知ってる人は少ないと思います。

植物の粟が大量に生い茂る場所なのかと思いきや、ここにはこのような由来があります。

天正の世、臼杵は大友宗麟の構える丹生島城が、島津軍によって攻め込まれておりました。

竹田路・府内路に駐留していた小隊がちょうどこの下南地区あたりで結集して丹生島城へいざ攻め込まんとするとき、宗麟が南蛮より輸入したフランキ砲「国崩」が爆音を轟かせたため、島津は急いで撤退して行ったと伝えられます。

よって轟音に慌ててにげていったその野原を「あわて原」→「粟手原」となったということです。

この近くには「清太郎」というおっさんのような地名があります。(区民のみなさんすんません)

由来には諸説あり、安易に「誰か地元の偉い人の名前じゃろう」という説もありますが、臼杵町誌(S14~15 豊州新報連載)によると・・・・・

駐留していた隊がこの地に集結した。

つまり島津が勢ぞろいした。

その頃の言葉では「勢ぞろいすること」を「勢足らう(せいたらう)」といったそうで、

この「勢足らう」がなまって「せいたろう」となり 現在の「清太郎」にいたった ということであります。

このおっさんのような地名にもこのような由緒があったわけです。

どうか皆々様、ちょっぴり嘘くさいこのような由来でも、説を唱えた当時の人々の考え方や想像力が息絶えることのないように、記憶の隅に置いておいていただきたい・・・・・こう思うわけです