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2012年2月13日 (月)

臼杵妖怪考  続・賢厳禅師

怪異あるところに歴史あり。
畏怖は物忘れのひどい我々の忘却という腐食を
言われやタブーによって保冷し
新鮮さを失わず保存してくれる方法で
それはあたかも干物漬物などの
保存食を見出した昔の人の工夫と同じであります

物の価値や有り難味が薄れかかっている現代にも
神秘なもの、神聖なもの、
怨念めいたもの、目に見えぬ者といった
「怖さ」だけは
「迷信」なる消極材料をけっ飛ばし
衰えに反発し、そのまんまの形を見せてくれております

以前、妖怪考にてご紹介した多福寺三世・賢厳禅師の伝承について
http://miwari.blogcoara.jp/miwari/2010/06/post-a441.html

また、おもしろい記載を見つけたので追記しておきます

宇和島藩・和霊様の起源となった怨霊鎮談での活躍や
山庵に隠居してから臼杵においての怪談など、
数々のエピソードを持つ賢厳禅師
臼杵史談83号を引き、「東神野歴史探訪 その四」によると
禅師が住んでいる山庵に毎晩、東神野黒枝家の吉内(きちね)さんという老人が通い、
その教えを学んだそうです。

ある日、吉内さんが帰ろうとすると禅師が
「今夜はその桶を持って帰り、途中で胸騒ぎがしたら、
その桶をかぶって道端にかがんでおくように」
と言ったそうです
真夜中に姫岳を帰っていると吉内さんは変な気持になったので
桶をかぶり道端にかがんでいると声が聞こえ、
桶の下から見てみると、鬼のような化け物が二つ三つ見えました
化けものは「今まで人臭いにおいがしていたが、よく見れば仏がおるわい」
といって消えてしまった、ということです

また、黒枝家のすぐ下の畑に吉内さんが
賢巖禅師からいただいた「山庵柿」があり、
七本の柿木のうち一本だけは、甘柿と渋柿半分ずつなり、
しかもその木だけは高さが3メートル以上には伸びないそうです
その近くにある「つぶ池」も不思議な池で、
ここにごみが溜まると家の人の歯が痛くなるということです。

この話、賢厳禅師の法力・威徳もすごいのですが
夜に東神野から姫岳を越えて毎晩通い、
禅師に「もう教えることがない」と言われるまで
8年間も教えを乞いに行った吉内さんの信心深さも
すごいのであります

2012年1月 5日 (木)

臼杵妖怪考 龍

昨年は

イベント関係団体、

行政機関、

各地域健全育成部門の方々、

郷土史研究の皆様方に

多大なご協力をいただき

ミワリー活動を円滑に終了できたことを

心よりお礼申し上げます

2012年の日の出は、

大震災による被災地の復興に

誰もが祈願する始まりとなったはずです

昨年見た震災の恐怖、水の驚異、

人工物の儚さ、愚かさ。

中でもリアス式海岸の海に面する臼杵にとって

あの津波の映像は我が町を見るような

悲痛な場面の連続でした

臼杵にも慶長、元禄、宝永、安永、安政と

地震や津波が襲い、甚大な被害があったことを

文献が残してくれており

何卒、このタイミングに

歴史から見る臼杵の震災を

市民向けに発表できないかと

所属する臼杵史談会に懇願したところ

今年の史談会講演に

震災関連の講演会開催を予定していただき

なにかひとつ

身近な社会ために

歴史への興味と教訓、対策を

役立ててもらえる仕事ができたと

ちっぽけな達成感に浸っております。

さて、久々の「臼杵妖怪考」は「龍」

辰年にちなんでと安易に結びつけるつもりはないが

古い考えでは、水辺は龍の領域で、

臼杵においても

龍源寺のあった「龍ヶ淵」にも龍神がおり、

磯島(十六天神)にも夫婦の竜がおり、

臼杵川には龍馬が住み、

津久見島には大蛇が住み、

古寺の池に沈んだ僧が龍になる話など

すべてと言っていいほどとの関連が見られます

雨乞いをするときは竜王にお願いするように

はたまた水脈そのものを龍脈と言ったり

水と龍は切れない縁

かなり中国寄りの思想からきている影響が

ほんのり浮かび上がりますが

その後、神道においても、仏教においても

神聖なあつかいの獣であることにまちがいなく、

あの津波などの天災の脅威を

神獣の怒りととらえた先人たちのイマジネーションによって

地域に根付いた物語となったのであると考えます

辰年の今年もよろしくお願いします

2010年10月 5日 (火)

臼杵妖怪考  神使の伝説

もう数年前にもなるが

観光の先進地である温泉の町から

講師がやってきて、わが町で講演会をやっていた

べつに聞きたくもなかったし

ほとんど眠っていたのでうっすらしかおぼえていないが

その何様か知らない上から目線もさることながら

内容のほとんどは

その温泉町が朝のTV小説の舞台になったことの自慢話だった

そして最終的には臼杵も観光を町として成功させるには

大きなメディアの力を雇い入れ、招致せよ、みたいな

余計な御世話だジジイとしかいいようのない結末だった

あのようなゴミのような講演会や

アホンダラなパネルディスカッション

他力本願&自己満足なわが町自慢を

何回やったって無意味であることに

いいかげん気づいてほしい

このように思う今日この頃

皆様方におかれましては

そろそろ衣替えをやろうか、やるまいかの瀬戸際のこととお慶び申し上げます

津久見島は臼杵城から向かって丑寅(北東)にあたり鬼門であることから藩政時代にも位置的に重要な意味を持っていたようです。寛永年中に三代目藩主・稲葉一通は、琵琶湖の竹生島の弁天さまを津久見島に祀りました。弁天さまは水の神なので臼杵藩の海上を守り、また同時に方位を守る意味も含まれていたのかもしれません。この津久見島にもやはり妖怪伝説があります。

臼杵城が島だった頃、城内に住んでいたある家老に一人の美しい娘がいました。他国から縁談を求められるほどの美女でしたが、ある時から突然笑わなくなってしまい、親である家老が事情を聞いたところ、毎夜子の刻に現れる美しい若侍に恋をしてしまったと言いました。「娘は日に日にやせ細っている。魔性の者に違いない」そう思った家老は腕利きの剣士を引き連れて子の刻を待っていると、娘の言うとおり若侍がやってきました。ここぞとばかりに剣士らが切りかかったが、それをかわした若侍は「亀の首」から海へ飛び込みました。それは世にも恐ろしい巨大な蛇が銀色の波を立てながら津久見島へと泳いでゆく姿でした。その後、娘はついに命を落としたということです。

この「津久見島の大蛇」は「臼杵市史」「臼杵史談」「臼杵町誌」など臼杵の郷土資料に最も多く登場する有名な話です。

これによく似た話で津留地区にはこんな言い伝えがあります。「日が入ったら的場ヶ浜のお地蔵さんより先に行くな。昔、そこでホラ貝を吹いていた住職の前に美女が現れ、自分は津久見島の弁天で毎夜行き来しているが、用もないのにここへ来るなら明日はお前の命を取る、といって蛇の姿に変わり津久見島へ戻って行った」という話です。

この二つのお話に共通する蛇の変化、津久見島との関係、じつは神様の信仰に大きく関わっているのです。

日本の神道には昔から神に「神使」が従っているという考え方がありました。神使とは“神に仕える動物”で天満宮は牛、八幡社は鳩、大黒様は鼠、が神使と言われています。最も馴染み深いのは稲荷神社の狐ではないでしょうか。動物が持つ野性の不思議な力を従えることで神体の神聖さをより強く民衆に植えつけるという考え方です。

じつは弁天様の神使は「蛇」なのです。

本家である琵琶湖・竹生島の弁天さまにも、島に向かって蛇像を祀った摂社があります。

「蛇は弁天さまの使い」だった、という信仰がすでに臼杵にも根付いていたため「津久見島には大蛇がいる」という伝説が生まれたと考えられます。

臼杵において神使の信仰が民間伝承に反映されたと思われる例がもうひとつあります。国宝・臼杵石仏に伝わる「真名野長者伝説」の一異説に、「般若姫が病気になった夜、数千の猿たちが屋根で踊りだした」との一節があります。臼杵石仏郡の中には山王神社(日吉神社)があり、日本では山王社の使いは「猿」と言われていて、神使として境内に猿を置く神社や、逆に猿の霊験によって建てられた神社を山王社とした事例も数多くあります。

このように民衆の厚い信仰は伝説を生み、伝説はその後の人々の想像を否応にも神秘へと導いてもともとの信仰を忘却から守っていくサイクルが働いているようにも感じます。

臼杵城内の鬼門封じ「卯寅稲荷」にまつわる白狐の伝説も同じような思想のもとに語り継がれているのではないでしょうか。

「臼杵市史」「臼杵史談」「臼杵町誌」

海辺地域のガイドマップ「海・山・歴史あまべ」

2010年8月17日 (火)

うぶめ怪談

大河ドラマに無理くりこじつけてグッズ売ったり

ガラクタ集めてレトロと称し、町をアピールしたり

ソーラン節まがいのアホンダラなダンスを祭りと言ってみたり

ねぶたの偽物を練って大騒ぎしたり

神がかりも誇りもない町は自由でいいなあ と、うらやましがっていたが

毎年どんな気象条件にあっても

祭りの神事中には

ピタリと雨を止める臼杵の祇園様は

やっぱりすげえなああ

と思う今日このごろ

皆様方には暑中お見舞い申し上げます

妖怪には音を出すが見えないもの、祟りを成す恐ろしいものなど様々なタイプがありますが、このような“はっきりとしない存在”が人々の想像を恐怖とともに膨らませ、時としてカッパのように具体的な特徴・特性”を形作る場合があります。うぶめ”がそれに当たると思います。

うぶめ”は“産女”とも書かれ、夜道に人の前に現れる妖怪です。

日本一般的には“血のついた衣を身に付け、腕には赤ん坊を抱いていると言われており、臼杵の伝承では村上あや著「うすきの花びら」や「野津町誌」に出現した場所も特定して記されています。

このようにダイレクトに幽霊っぽさ、妖怪らしさを表現した“うぶめ”を、臼杵の人々はどのような事柄をヒントに想像していったのでしょうか。

「野津町誌」によれば「うぶめは“ワラジの鼻緒が切れるまでこの子を抱いてください”と言うので、「その場を通る際は前もって鼻緒を切っておくとよい」と書かれてあります。

どうやら“うぶめ”という妖怪は、河童のように“少しとぼけた印象”でもなく、怨霊のように“強力で恐ろしいイメージ”でもなく、どこか“哀れで悲しい印象”を植え付けているようです。

これには臼杵や周辺町村の風習が背景にあったと考えられます。

臼杵史談:「出産に関わる臼杵の民俗」には「お産で母子ともに亡くなった時は別々に埋葬しなければならない。そうしなければ“うぶめ”になる」とあります。おそらくこのような風習から“生”と“死”の両極端を融合して想像されたと思われます。“誕生”を奪われ“人間であること”を一度に奪われた者への哀れみを母子そのままの形として表現したのでしょう。

あるいは全国的にもメジャーな部類に当たるこの妖怪が臼杵に伝播した時、鳥山石燕作「画図百鬼夜行」などに代表される“血ぬられた腰巻だけの長髪の女”の悲しくも怖いイメージが先行して言い伝えられたとも考えられます。

いずれにせよ“お産で亡くなった母子”が妖怪になるのは少し悲しすぎる気がしますし、通行人の妨害のような成仏できない浮遊霊に置き換えられてはとても可愛そうな気がしてなりません。

また次のような伝説もあります。

真野長者領地開拓のため湖を埋め、漏魔王・如魔王の夫婦龍の祟りを受け、般若経をもって鎮めたというのは江無田にある十六天神の縁起です。

残された竜の子らは別の島に籠められたといいます。

雌竜がこの龍の子らに授乳するため、夜な夜な鬼女と化し通った島こそが「うぶめ島」という言い伝えもあり、島はおそらく「産ヶ島」のことで現在の新地、ヤクルトの裏手の小丘がそれです。

この話もなにか母子の悲しさを表しており、龍の化けた鬼女うぶめがかかわっていることから現在のうぶめの話にも影響している気がします。

ところで「臼杵市史」には臼杵出身の浮世絵師・右田年英が描いた「うぶめ」が掲載されています。

この「うぶめ」は一般的に想像され描かれている“幽霊っぽい印象”とは正反対に、華やかな着物を着て綺麗に髪を結い、化粧をした女性が乳飲み子を抱きかかえている姿なのです。右田年英はどのような思いでこの“うぶめ”を描いたのでしょうか。

2010年6月22日 (火)

賢厳禅師の伝承

近頃の選挙の流行りかなにか知らないが

志もない候補者が、できもしない公約ばかり掲げる

もっぱらこれにはこれまでの政治家にも責任があり

情熱・やる気・行動力などを武器に

若者根性ばかりを発揮しすぎる者や

有権者に媚びへつらうことばかりを重視する者らが

具体策を公言できずにいた結果、 

世論からは何もできないと見なされるので

しかたなくマニフェストという目に見えぬまぼろしを

活字でもって表すしか手段がないのであるが

それを求める我々国民にも十分責任があると思う

きれいごとを言うならば

政治はビジネスじゃあないし、そうであってはならない

確かに今や戦略なくして選挙を乗り切るのは難しい事情もわかるが

それ以前にけなし合い・批判戦であってならないわけで

ましてや 同じ政治家同士で

沿道でマイク持って、目くじら立てて

あいつは公約違反とかあいつはだめだとか言っているのは

ダイエットできない妻と禁煙できない夫が

互いに「やめろ」「やせろ」と言いあっているも同然である

思いついたような公約を掲げたり

一部に聞こえのいい支援だとか

はたまた政党選択なのか 個人選択なのか 

政党を選択しても派閥があってどうせ思うようにならないなら

いっそのこと目に見えない大志・理想を持っていて

ものの考え方のしっかりとした個人に

自分は一票を投ずる

このように思う今日この頃

皆様方におかれましては

臼杵祇園の御渡と投票日が重なる7/11には

祇園牛頭天王ことスサノオを勇める一番神輿を

毎年担当する市役所職員のみなさんが

投票所と祭りに分担し

まさに暑い暑い夏を乗り切るべく動いておりますので

何卒、国民であり、市民であることを忘れず

祭りにも投票にも参加していただくことをお願い申しあげまして

田舎の妖怪サークルのくせに

甚だ上から目線で恐縮ですが

そろそろ本題に入りますです・

賢厳禅師の伝承

今も話せる人がいるだろうかと安心ができない偉人の口伝・伝記・説話のひとつに多福寺3世賢厳禅悦和尚のことがあります

何故この「臼杵妖怪考」なるカテゴリに禅師の話を記載するかと不思議に思ってくださる方のため禅師の基礎知識を先に述べようと思います

その高名はいたって人の知るところで、俗に最も世に知られる禅師の寺職としての説話に以下の話があります。

愛媛県宇和島市「和霊神社」がある。昔、宇和島藩に山内清兵衛という忠義の家臣が藩政改革に関連して反対派から一家皆殺しにされた。以後、宇和島藩では地震、落雷、疫病などが続々と起こったため、清兵衛のたたりにちがいないということになり、その霊を祈祷したがおさまらないため、当時臼杵の住職であった賢巌和尚の名声を聞き、和尚を招いたところ、たちどころに霊がおさまったという。そこで清兵衛を伊達家の守り神として和霊神社を建立し、祀ったという。以来、藩政時代には「臼杵から誰かが行かなければお祭りが始められない」といわれたほど賢巌和尚の高徳が慕われたという。

この一件で賢厳禅師は臼杵だけでなく四国にまでセンセーショナルに名声を轟かせたわけですが、市内では門徒の方や一般の人の中にも禅師にちなんだ説話を聞くことがありました。つまり禅師による怪しげな話・奇談が伝えられているというのを知っていただきたいのであります

禅師が鎮南山の山庵に隠居してからの話で、小坊主とふたりで帰る途中、関ヶ原の時に臼杵の太田を攻めた中川が陣を組んだとう陣山を通りがかったところ、禅師が突然ぶつぶつとしゃべり出したので、驚いた小坊が問いかけると、お前には見えぬのか、ここで成仏できずに喘いでいる亡者の声が、といって小坊が見るがどこにもそのような様子もなかった、という話あがり、これをもって高僧にしか見えぬものがある、というようなエピソードを臼杵の人に浸透させ、あるいは庶民のほうから湧きだした逸話かもしれないけれど、また別の話で詳しくはわからないが、ある人が禅師の袖の中をのぞくと、地獄が写っていたという話があり威徳の重みを増すばかりでなく地獄や亡者といったキーワードが仏僧としての説明に繋がっているようにも感じるのであります。どうやら賢厳禅師は和霊様の一件で「偉大な和尚」というネームバリューを得ただけでなく、藩内の民衆にとって怨霊退治のヒーローとしての一面も抜きん出て幅広く浸透しているように思えます

どうか皆様方にはこのほかにも賢厳禅師のお話、または知っている方から聞いた話などございましたら、当会にご連絡いただきたくお願い申し上げます。

2010年6月16日 (水)

飛ぶもの 光るもの

旧中津江村 元村長の坂本さんは

2002年Wカップ日韓大会の際 

カメルーンのおかげで中津江村が全国的に有名になった恩返しに

先日の「日本 対 カメルーン戦」において

相手国であるカメルーンを応援するため

南アフリカまで行き、観戦した。

自分はこの人をえらいと思う

このような粋な行動は

地元中津江の村民・小学生に

何かしらの思い出、郷土愛を植え付け

きっと心に響いていることと思う

そういった視点で見ると

次の日本の相手、オランダは

ある意味臼杵を有名にしてくれている

オランダ船デ・リーフデ号が臼杵に漂着をきっかけに交流がはじまり

日蘭友好400周年記念式典の開催地だった臼杵としては

「誰かオランダを応援に行かなくてよいのか?」

などと思う今日この頃

皆様方におかれましては

多少寝不足のこととお察し申し上げます

今回の臼杵妖怪考は臼杵の「飛行物体・発光物体」について

「神火(かみとび)」 臼杵史談より

明治三十年ごろ、南津留の障子岩で当時流行の軍談会(講談)があった。近隣からも多くの人が集まりクライマックスに達した頃、突然西南方から東方にかけて大火玉が飛んできて世界を照り明かし、一同を驚愕させた。後日談で野津市板屋原の代将軍のご神体の御鏡が破れ飛んでいたという。

「地蔵堂の金幣」 「上北津留村誌」より

中ノ川には地蔵堂があり、近郊に霊験のあらたかさを知られて祈願に参る者たちが群れを成した。その境内に樹齢百年を経た「ホシコガ」の大樹があった。ある人がこの木を使って自分の家を建てた。するとその家は火災になった。火炎が天にまで上ろうとするとき、不思議にも数多くの金幣が現れて夜にもかかわらず輝きながら不動堂との間を往復した。これを眺めた人もただ茫然と奇跡に驚くばかりで、地蔵堂の尊い霊験を感じとったという。

このほかに神体が意志をもって行動した事例があります。下の江の綿津見神社の伝説において、戦で所在不明となった御神体が、ある人の体をかりてしゃべり、所在の場所を神体自ら光を放って知らせたという話が、「下の江郷土のほこり」という書に記されています。

「神火(かみとび)」 は現代でいうUFOということになろうか、と思いますが、このような怪事件をある一定の人々が同時に発見している驚異はもとより、その原因が偶然にしろ野津の大将軍神社の何かお怒りのような威徳に結びつけるにいたったのは、なかなか明治の臼杵人らしい工夫があるように思います

地蔵堂に似た話は「飛行仏」というのが県内にも多く、「大分の伝説」などにも紹介されておりますが、尊体自身が飛ぶではなく金幣が飛ぶのは珍しい事例で、ことの発端を地蔵堂の木の怒りであるとするのも、現代において何か悪いことがあったとき古老などが「墓参りをせんからじゃ」などというのによく似ており、昔の人はなんとなく原因を探すのがうまく、良いこと悪いことに因果関係を見出すのが得意だったように感じます。

こうして伝承は再生産されて、タブーやしきたりの防衛装置としてグルグルまわっていくのだ・・・こう思うわけです

2010年6月 9日 (水)

コッチュウ

6月に入り、祇園祭の稽古が始まって音色を聴くと

言い表せぬ何者かが踊り始めて

これが「血が騒ぐ」というものなのか・・・などと、

携帯電話なしでは不安な現代人の分際で

武者でもないのに武者ぶるいなどしたりしておりますが

当番町ではミクロな行政区・「町」のために

学童や老婆や頑固者でさえ

4年に一度、一体になっており

このような大切なる伝統的天然コミュニティ事業を

あたかも「町人による神事祭事への付添」と笑うがごとく

「昔はもっと見物客が多かった」だの

「観光としての付属イベントを増やす」だの

「夜曳きも山車だけでは物足りん」だの

「うるせぇ しゃらくせぇ!」

と、言ってしまいたくなる今日このごろ

皆様方におかれましては

どうか危険ですので

祇園囃子の軽快さに酔いしれて

思わず滑稽なダンスなど披露してしまわぬよう

お願い申しあげまして

甚だ簡単ではございますが 

本日のブログ本題前のあいさつとさせていただきます

臼杵では昔、獣が年をとって怪物になるのを「コッチュウ」と呼んでいたそうです。

現在の稲葉家下屋敷付近には昔「堀川」があり、その河川敷には松の木の並木がありました。夜ここを通ると黒い風呂敷のようなものが松の木からバサバサと飛んできて人をおどかすという噂があり、人々はこの妖怪を「のぶすま」と呼んで恐れていました。「飯沼源八」という腕利きの鉄砲撃ちがそれを退治してみると、年をとったコウモリだったということです。この話はミワリークラブのメンバーが市内在住の古老から聞いた話です。

同じく年老いた動物の妖怪で「化け猫」の話が「臼杵町誌」に記されています。

昔、祇園洲のある家に">“作兵衛”という下男がいました。ある日、主人の老母の部屋をのぞくと、その家で飼われていた老猫が「やあとせえ」と踊っていました。次の晩、出かける主人を外で待っていると、作兵衛の名を呼びながら二つの提灯が近づき、恐ろしくなった作兵衛が刀で切りつけると、屋根伝いに恐ろしい怪物が逃げて行きました。次の日屋敷は大騒ぎ。主人の老母が大怪我をしたというのです。どうもおかしいと気づいた作兵衛が主人に事の次第を全て話したところ、主人は老母に「傷を見せろ」と迫りました。しかしものすごい権幕で見せようとせず、ついには無理に見ようとした主人に火を噴いて異様な化け物と化したのです。主人が刀で斬りつけるとなんと不思議なことに元の老母の姿になってしまいました。ところが悲しむ家族の前で時間とともに老母は世にも恐ろしい怪猫の姿に戻ったということです。

このふたつのコッチュウには藩時代の城下の形態や歴史が大きく関わっているのではないかと考えます。

のぶすまは全国にも多く伝えられる妖怪で江戸時代に描かれた絵本「続百鬼」(鳥山石燕)という画図にも描かれており、臼杵図書館の書庫には稲葉から寄贈された「続百鬼」が保存されています。つまり妖怪に関する書籍も藩では読まれていたということであり、闇夜に飛ぶ怪異を「のぶすま」と呼ぶ認識があった可能性もうかがえます。また、臼杵城には無数の防空壕跡がありますが、じつは臼杵城にはそれ以前の昔から“抜け穴伝説”のような言い伝えがあったとも言われています。本当か否かは別にして天然の島に城郭を築いた臼杵城ですから洞窟の一つや二つ存在していてもおかしくはないでしょう。このような洞穴や岩穴に住み着いたコウモリが行き場をなくし、近くの松の木に住み着いたのではないかと考えられ、これをのぶすまと呼んだのではないでしょうか。

次に化け猫ですが、これまた全国に類話の多い話です。どこかから伝わった伝承とも考えられますが、“祇園洲”の地名や“やあとせえ”の掛け声などとても具体的に臼杵の要素を絡ませてあります。戦前、町八町のうち恵比寿神社を奉る掛町・横町・浜町は“魚三町”と呼ばれ、酒と魚を売る“うおんたな”で栄えたそうです。もっと前には吉四六さんが臼杵の町に魚を買いに来ていたといいますから、おそらく藩政時代にも栄えていたと思われます。魚によって栄えた臼杵の町にとって猫は大敵・やっかいものと見なされ、猫を飼う家に「妖艶で恩知らずな生き物」といった印象をうえつけるためこのようなお話が残されたのではないでしょうか。

また、コウモリと猫、どちらも夜目の利く動物だけに怪しげな存在感が藩時代の人々に怪異として焼きついたのではないかと推理するのであります。ともあれ人間の都合で行き場をなくした動物がコッチュウとなるならば現代でも決して簡単に迷信と笑えない気がします。

2010年6月 5日 (土)

巨亀城考察

「天領 日田」とか

「泉都 別府」とか

「九州の小京都 杵築」とか

臼杵にもそのようなサブタイトルがあったらなあ・・・などと思っていたが、

このような「おもちゃ箱をひっくりかえしたような城下町」であるゆえ

ひとつのジャンルに抜きん出た名前なんぞないことに気づいて

なかばあきらめかけていたが、

石仏や寺社もろもろの仏閣、御祭や神事、宗麟によるキリスト教や野津のキリシタン遺跡などの宗教関連の多い町であるとともに

南蛮貿易全盛の栄華、稲葉公の城下町整備による商人町の基礎、天保の改革・藩再建の歴史などのつまり商業都市としての一面

それを兼ね備えて、

小京都ならぬ「商教都・臼杵」なんてぇのはいかがだろうか・・

などと思う今日この頃、

みなさまいかがお過ごしでしょうか?

さて、臼杵のシンボル臼杵城についてふと考えたことについて

自分なりの解釈を長ったらしくここに記しおいておきます

「小城とはいえども四方の堅めもよき要害の地にて、風景図の如き所なり、本丸は海上の岩山を築きし城にて、雅なる事いはんかたなし」

これは日本中を見聞し「西遊雑記」を書いた古河古松軒(ふるかわこしょうけん)という人が天明三年1783に臼杵を訪れた際、臼杵城について描写した文です。

この文だけを見ますと「風景図の如き」とか「雅なる」と絶賛していますが、後の文では臼杵の人が口々に言っている俗信も付け加えて「土人すべていふ、本丸は浮島にて、敵の寄来る時には亀の背にある岩山にして時となくうごく事有り共いふ。」とあります。つまり、当時の臼杵の人は“浮島であり大亀の上にある城なので敵が来ると沖に動く”と信じていていたらしく、これに対して古松軒は「埒もなき虚説」と、半ばあきれたようなコメントを添えています。

その他、「臼杵町誌」などにも亀城伝説が書かれていることから、この俗信は明治ごろまで言い伝えられていたということになります。

ではこの亀城の伝説はなぜ生まれたのでしょうか。

臼杵城はもともと臼杵七島のひとつ丹生島で1562年に大友宗麟が築城しました。

築城時は城下町もまだ完全に整備されておらず、「臼杵小鑑」には「古しへは丹生の崎(丹生島)よりこなたの濱、西より東にわたりすべて横濱はまのうらといふ」とあることから、この横浜から城にかけてはまだ芦の生い茂る干潟ではなかったかと思われます。

それが時には満干によって距離の錯覚を起し、動いて見えることもあったかもしれませんし、鎮南山などから見るとたしかに「亀」の原型はとどめているので、この両面から人々の「動く亀城」が想像されていったと思われます。

しかしこれだけでは「敵の侵入時に守る」という部分が説明できません。

天正のころ、臼杵城は島津軍の侵攻により危機を迎えました。

このとき大友宗麟は民衆を城内にかくまって、自ら城下に火を放ったという話がフロイスの「日本史」に記されています。さらに民衆が城内に逃げる際、家屋の下に財産を埋めたと思われる遺構も見つかっています。

「亀の形」・「動く」・「守る」の三つの条件が伝説の基盤となり、想像力豊かな人々から“非常時の守護神”的な存在として語り継がれたと推理します。

臼杵城はその後、城主が代わりながらも藩政時代の終わりまで城として機能しました。

近代に入ると島であった本丸の回りも埋め立てられましたが、その周辺がかつて海岸だった名残が祇園洲・洲崎・浜・海添などの地名に残されています。

城も公園となり、周囲は人の交通機能のために道路を拡張していく時代、ついに城の“亀の首”と呼ばれた部分が切られることになりました。

この時、工事を請け負った土木業者の川辺亀蔵氏は、いくら岩石の塊とはいえ、いやしくも400年亀城として町の人の心の支えとなってきた亀の首を切るにしのびず、私費で神官を招いて起工式とは別に“首切りお断りの儀式”を行いました。

郷土史家・村上あや先生は「うすきの花びら・道」で

「合理性の名のもとには生きた猫も単なる物質となる近代に川辺亀蔵のような土建業者がいたことを誇りたい」と締めくくっています。

産業のため生活のため臼杵が町として目まぐるしく成長してゆくその時代に地元の伝承を一途に守った川辺亀蔵氏の“信心深さ”と“粋な計らい”のおかげで亀は祟ることなく臼杵のシンボルとして君臨し続けました。

現在も公園・史跡としてだけではなく、周辺地域の津波避難場所として“非常時の守護神”の役割を保っています。

2008年10月 8日 (水)

臼杵城・巨亀城

20081008084020 臼杵城が「亀」である・・・のわかりやすい絵図

これは北の諏訪山方面から見たようなかんじであるが。

ほれ見ろ!亀やんか!といいたいが、なんかスッポンに近い気がする

2007年8月27日 (月)

和尚の変化

臼杵の怪談で和尚さんが化ける・化かす・化けて出るといった話がけっこうある。

1.深田:坊主川の坊主の化け物が出る

2.野津:興禅寺淵;寺の鐘とともに沈んだ和尚が蛇になり、その後この淵を守った。

3.門前:海蔵寺;押し込み強盗に殺された和尚の霊が泥棒についていく。本人は見えない。

4.こうずうでしこし:留守中の小坊主が御供えものを食ったと勘違いし腹を裂いたが、何も見つからず、和尚はその後梟となって毎晩「こうずうでしこし(小坊主、弟子恋し)」となくようになった。

1から3の話には共通点として「廃寺」であることが挙げられる。

1.の深田には臼杵石仏を含む強大な満月寺が建っていた。(今のとは規模の違う寺院地帯だった)

2は庵をふくむ壮大な寺院だったという

3も大友政親公が父のために建立とあり、かなり大きな寺院だったと考えられる

4は場所の特定はないが、市内での広い範囲の民話であろう。

おそらく廃寺になった跡に寺の遺品などを荒らすものが絶えなかったために、このような伝承が出来上がったのではなかろうか?

和尚や寺に関する話はほかにもたくさんある。